aegraergae
1 : マスター 2023/09/24 17:40:32 ID:NyRsyPYUlI
レースを引退して5年。理学療法士になって、ようやく仕事に慣れて来たころ、『あの人』と再会することになった。
まだ半人前の俺が会っていいのか分からないけど、父さんと母さんが、絶対に会った方がいいって言ってたし、本当はおれも会いたかったから、約束の時間にトレセン学園に行った。
学園の門の前で待っていると、グラウンドの方から『あの人』が来た。顔も恰好も5年前とあまり変わらないのを見て、なぜかほっとしてしまう。
『あの人』、おれの元トレーナーさんは、おれを見ると驚いたような顔で「綺麗に、なったね」と言った。


2 : トレーナー君 2023/09/24 17:40:51 ID:NyRsyPYUlI
その言葉を聞いて、内心舞い上がってしまう。どれだけ長く会っていなくても、あなたの声を聞くだけで、おれは嬉しくなってしまうのだから。そんな事を言われたら、胸の奥が変になりそうになる。
トレセン学園の周りを散歩しながら、色々なことを話した。今のトレーナーさんは、短距離に適性のある子たちに、基礎的な走り方を教える、一種のサブトレーナーのようなことをしているらしい。
「ミラクルが真面目すぎたせいか、他の子を担当してもうまく行かなくて。練習をサボられたり、なまけ癖がついたり……」と、トレーナーさんは苦笑した。あなたのように、素晴らしいトレーナーが付いてくれるなら、おれなら絶対にそんなことをしないのに。と考えてしまう。
それを口に出せないのは、おれとトレーナーさんの歩いている道が、既に分かたれているせいだろう。
「でも、面白いよ。俺が教えたことがきっかけで、レースの世界に入ってくれたら、それだけ短距離部門が盛り上がるってことだし」
それでも、歯を食いしばってしまう。トレーナーさんなら、おれよりももっとすごいウマ娘の専属トレーナーになれるはずだから。
「また、会いませんか?」
気づけば、連絡先を交換していた。
本当は、おれなんかがあなたを縛ってはいけないはずなのに。いつでも手を離せるようにしなきゃいけないのに。


3 : お姉ちゃん 2023/09/24 17:42:02 ID:NyRsyPYUlI
トレーナーさんとは、週に1度のペースで会うようになった。
出かける場所は毎回違っていて、トレセン学園の周りをぶらぶらすることもあれば、少し遠出して水族館に行ったり、一緒に話題の映画を見ることもあった。
正直なところ、おれはトレーナーさんと一緒にいられるならどこでも良かった。彼のそばはとても暖かくて、安心できるから。
一緒に居る時、おれは自分の職場のことを主に話し、トレーナーさんは学園のことを主に話した。話すことがなくなれば、お互いに静かにしていた。静寂はむしろ心地よかった。
ただ、トレーナーさんは担当している子たちのことを話す時、どこか遠い目を見せることがある。それは、担当している子たちが真面目じゃないとか、トレーナーさんがうまく注意できないとか、そういう問題ではなく、もっと別の問題のせいだと思った。
だから、おれは思い切ってトレーナーさんに聞いた。
「専属のトレーナーにならないんですか?」
トレーナーさんは触れられたくない場所を触られた猫のように、びくっと身体を震わせた。


4 : トレーナー 2023/09/24 17:42:46 ID:NyRsyPYUlI
「言っただろ、なかなか性格が合わなくて――」
「そうじゃないですよね」
「そうじゃないって?」
「あなたは、性格が合わないってだけで、その子の指導を投げ出したりしないはずです。もっと別の問題があるんじゃないですか」
トレーナーさんは、おれから目をそらした。それだけで、何か言いにくいことを隠していると分かる。
現役時代、トレーナーさんは絶対におれに嘘をつかなかった。どんなに残酷な現実があっても、おれを薄っぺらい嘘で騙して、慰めようとしなかった。優しいだけじゃなくて、とても真摯な人だから。
だから、嘘をつけばすぐに分かる。それが態度に出る。目をそらし、手をもじもじさせ、おれになんて言おうか必死に考えている。
そういうところが、本当に可愛いことを、この人は自覚しているのだろうか。


5 : 相棒 2023/09/24 17:43:48 ID:NyRsyPYUlI
「……聞いても怒らないか?」
真剣な表情で、トレーナーさんは言った。
「なぜです?」
「君との約束を、破ることになってしまうから。君を最初で最後の担当にしないっていう、約束を」
「……聞いてから考えます」
すると、トレーナーさんはため息をついて言った。
「君より、速い子が見つからなかった」
「え?」
「どんな子を担当しても、あの頃の君を思い出すと、誰も速く感じなくなってしまって」
「でも、おれより速い子なんていくらでも……」
そこまで言って、おれはトレーナーさんが泣いているのに気が付いた。
おれ……ケイエスミラクルの走りを忘れられない自分に対する情けなさか、あるいは、おれとの約束を破ってしまったことへの不甲斐なさなのか。
おれは、思わずトレーナーさんの頭を抱きしめて、頭を撫でてしまった。
そんなことをすれば、もっと離れられなくなることが分かっているはずなのに。
本当は、おれなんかがあなたを縛ってはいけないはずなのに。いつでも手を離せるようにしなきゃいけないのに。


6 : アナタ 2023/09/24 18:04:13 ID:LZw5znl7ME
いいですね、えぇ
そのまま続けてください!


8 : ダンナ 2023/09/24 18:37:54 ID:NyRsyPYUlI
その日、おれはトレーナーさんを自宅に呼んだ。
というのも、トレーナーさんと出かけている時に、おれが一人暮らしをしていることを話すと、「一人暮らし?心配だな……」と言われてしまったからだ。
「大丈夫ですよ、ちゃんと家事もできますし。体調には細心の注意を払っていますから」
「それでも、女性の一人暮らしってだけで心配になるよ」
「だったら、今度うちに来ますか?」
そういうわけで、トレーナーさんが自宅に来ることになった。
「病院の近くのマンションか。家賃が高くないか?」
部屋に上がると、トレーナーさんが聞いてきた。
「レースの賞金を当ててるから、大丈夫です。何か飲みますか?」
「いや、気を使わなくても」
「おれが気を使いたいんです」
「じゃあ、コーヒーを。ブラックで」
「分かりました」


9 : トレーナー君 2023/09/24 18:38:26 ID:NyRsyPYUlI
おれがコーヒーを淹れている間、トレーナーさんは部屋の中を見回していた。
きちんと片付けたつもりだけど、トレーナーさんに見られているだけで、少しどきどきしてしまう。
「はい、コーヒーです」
「ミラクルは水でいいのか?」
「ええ、胃がちょっと」
「そうか……」
トレーナーさんはコーヒーをひと口飲んで、おれに聞いた。
「あまり物が無いけど、普段は何してるんだ?」
「今は、とにかく勉強してます。覚えることがたくさんありますし、何より早く目標を叶えたいですから」
「趣味とか無いのか?」
トレーナーさんが心配そうな顔をする。そういえば、現役時代はトレーナーさんは事あるごとに心配そうな顔をしていたなと思い出して、少しおかしくなる。
そういう優しいところは、何も変わっていない。


10 : トレーナー 2023/09/24 18:39:38 ID:NyRsyPYUlI
「そんな顔をしなくても、大丈夫ですよ。友達とはたまに会ってますし、子供たちにピアノを弾いてあげることもあります。それに――」
トレーナーさんを安心させるために、微笑む。
「今は、あなたと過ごすのが趣味みたいなものだから」
「ゴホッ!ゴホッ!」
トレーナーさんはむせるような咳をした。
「大丈夫ですか!?」
「あ、ああ。大丈夫」
「良かった……」
「……ミラクル、そういうことは誰にでもしてるのか?」
「え?何がですか?」
「いや、あまり人を勘違いさせるようなことをしちゃダメだぞ」
「勘違いって、おれは本当のことを言ってるだけなのに……」
その後は、トレーナーさんと楽しく話して過ごした。
この穏やかで楽しい時間が、ずっと続いて欲しいと考えてしまう。
本当は、おれなんかがあなたを縛ってはいけないはずなのに。いつでも手を離せるようにしなきゃいけないのに。


13 : トレぴっぴ 2023/09/24 19:34:52 ID:aJUl684vds
これはまだ湿度ではないか・・・
相変わらずの重力だけど

続きが気になる


14 : お姉さま 2023/09/24 19:35:46 ID:NyRsyPYUlI
トレーナーさんと一緒に住むことになった。
おれがトレーナーさんを自宅に招いたことを、母さんに話したことがきっかけだった。
「どうか、娘のそばに居てあげて下さいって頼まれたよ」
いつものお出かけで、公園のベンチで休んでいる時、トレーナーさんは少し困った顔で言った。
「心配なのはわかりますが、ミラクルももう大人ですし、どうか信頼してあげて下さい。って言ったけど」
「あはは……うちの親がすみません」
「ミラクルも困るだろ?俺と一緒に暮らせなんて、いきなり言われて」
ふと、トレーナーさんと一緒に暮らす日々を、考えてみる。
どんな感じだろう。この間、トレーナーさんを自宅に呼んだ時のような感じだろうか。
日が暮れるまで、思いつくことは何でも話して。
話すことが無くなって、日が落ちて暗くなっても、一緒にいるのが心地よくて。
一緒に夕食を作って。現役時代から変わらず、トレーナーさんが作ってくれる料理はとても美味しくて。
トレーナーさんが帰る時、思わず袖を掴んで引き留めてしまいそうになるくらい、楽しい時間。
そういう感じなら、いいかもしれないと考える。もちろん、現実はそう都合よくいかないと分かっているけど、トレーナーさんとなら暮らしてみてもいいと思ってしまう。


15 : お姉さま 2023/09/24 19:37:24 ID:NyRsyPYUlI
考え込むおれを見るトレーナーさんに、笑って答える。
「おれは、あなたと一緒に暮らしてみたいです」
「……また勘違いさせようとしてないか?」
「勘違いってなんですか。もう」
「でも、通勤が……」
「うちからトレセン学園までは、自転車で20分くらいですよね」
「ベッドも用意しないと」
「友達が来た時用の折り畳みベッドがあります」
「えっと、あとは……」
「……おれと暮らすのは嫌ですか?」
トレーナーさんはぶんぶんと首を横に振る。おれを傷つけたくないのか、本心なのは分からないけど、まるで絵本に出て来る子犬のようで、それがとても可愛く見えてしまう。


16 : トレピッピ 2023/09/24 19:38:07 ID:NyRsyPYUlI
「じゃあ、決まりですね」
「……強くなったな」
「病院勤めは強くなきゃ務まりませんよ」
トレーナーさんとおれは、心から笑い合った。
こうして、トレーナーさんと同じ屋根の下で暮らすことになったけど、ますます離れづらくなってしまった。
本当は、おれなんかがあなたを縛ってはいけないはずなのに。いつでも手を離せるようにしなきゃいけないのに。


18 : アンタ 2023/09/24 21:58:36 ID:NjeobJfBtM
わっふるわっふる


17 : 相棒 2023/09/24 21:57:02 ID:6mYj99wXCw
実際ケイトレは速さに脳みそ焼かれてそうだしミラクルも男性観ぶっ壊れてそうではある


22 : トレーナー君 2023/09/25 06:18:43 ID:NR.ltjjLmo
トレーナーさんと一緒に暮らさなきゃよかったと思う。
暮らし始めてすぐ、折り畳みベッドは使わなくなって。
おれの方が起きる時間は早いのに、トレーナーさんは一緒に起きてくれて。
一緒に朝ご飯を食べて、おれは出勤。ゴミの日のゴミ出しはトレーナーさんがやっている。
「朝遅い方がやる。当然だろ?ミラクルが遅刻したら大変だし」
と言われたら、返す言葉もない。
仕事はやりがいがあって楽しいけど、とても疲れる。トラブルなんて日常茶飯事。けど、その辛さが生きてる実感を感じさせてくれる。
そう言うと、職場の同僚は「普通はそう考えないよ。辛いものは辛いって」と言うけど、おれがそう考えるのはおそらく、おれという存在が色んな奇跡の上で成り立っているという自覚のせいかもしれない。
それでも、帰るのは夜遅く。夕食を食べずに寝てしまうこともざらだけど、トレーナーさんと暮らし始めてからは違う。
「ただいま」
「おかえり。風呂は沸いてるし、飯も作ってある。どっちからでもいいぞ」
玄関を開けると、トレーナーさんの声が奥から聞こえてくる。
部屋は明るくて、一人暮らしを始めた頃の心細くなる暗闇はどこにもない。


23 : トレーナーちゃん 2023/09/25 06:19:55 ID:NR.ltjjLmo
「……こっちに来れますか?」
「どうした?」
玄関まで来たトレーナーさんは風呂上がりのラフな格好で、もし風呂にまだ入ってなければ一緒に入れただろうかと考えてしまう。
おれは疲れている、疲れている時はおかしなことを考えてしまうものだ。
そう思いながら、トレーナーさんの胸に顔を埋める。
胸板のたくましさ、トレーナーさんの匂い。息をするたびに、毒のように脳を蝕んでいく。
これで何度目だろう。いつものように、トレーナーさんはおれの頭をわしゃわしゃと撫でる。
一度、もっと強く撫でて欲しいとお願いしてからは、ずっとそうだ。髪がぐしゃぐしゃになっていくのが、いや、トレーナーさんにぐしゃぐしゃにされるのが気持ちいい。
「疲れたか?」
「疲れました」
「風呂に入れ。そしたらご飯にしよう」
「服……」
「それはダメだ。ほら、カッコいいとこを見せてくれ」
トレーナーさんが身体を離す。
髪がぐしゃぐしゃになったおれは、カッコいいどころか間抜けに見えるはずだけど、おれが微笑むとトレーナーさんは満足そうな顔で笑みを返してくれる。


24 : トレぴ 2023/09/25 06:21:27 ID:NR.ltjjLmo
風呂に入って気分をすっきりさせて、トレーナーさんと楽しく話しながら夕食を食べて、疲れた身体でベッドに倒れ込む。
トレーナーさんと一緒のベッド。トレーナーさんの体温。トレーナーさんの匂い。
一人だとベッドに入っても寒い、とおれが言って、それからずっと一緒に寝てもらっている。
トレーナーさんはいつも、律儀に俺に背を向ける。
トレーナーさんなりの自制と、おれの両親に対する義理立てなのだろう。トレーナーさんは真摯な人だから。
「……起きてますか?」
返答はない。
それを確認して、おれはトレーナーさんの背に、そっと鼻をおしつける。
毒が脳を蝕む。一度それを受け入れたら、二度と手放せなくなる毒が。
……変になる。いや、もうなっている。彼という存在が、おれの中に消えない爪痕を残してしまった。
だから、おれもあなたに消えない爪痕を残したくなってしまう。
本当は、おれなんかがあなたを縛ってはいけないはずなのに。いつでも手を離せるようにしなきゃいけないのに。


25 : お兄さま 2023/09/25 07:04:28 ID:Q6.vkqS9H.
うおっすげぇ重力…木星かな?


27 : トレーナー君 2023/09/26 06:30:08 ID:uyyKn/IL8U
トレーナーさんと大喧嘩してしまった。
休みの日。おれの休日は、シフトで決まってしまうから不安定だ。
それでも、トレーナーさんはできる限り、休日をおれに合わせてくれる。
「実はあまり忙しくないんだ」と、トレーナーさんは笑って言う。
おれの担当だった頃は、休日を返上して仕事をしていたから、むしろこれが普通なのだろう。
おれとトレーナーさんが休日に何をするかは、いつも違う。
一緒に出かけることもあれば、部屋の中でそれぞれ違うことをしたりする。


28 : キミ 2023/09/26 06:30:26 ID:uyyKn/IL8U
その日は、雨が降っていた。
雨音を聞きながら、おれは理学療法士の勉強をして、トレーナーさんはトレーナー向けの専門誌を読んでいた。
おれは食事の時に使うテーブルを使って、トレーナーさんはソファに座って。
距離が少しあっても、トレーナーさんと同じ空間にいるというだけで、なんだか嬉しくなってしまう。
そういえば、トレーナーさんはおれと再会するまで、休日は何をしていたんだろう。
一人で映画を見たり。一人で買い物をしたり。一人で水族館に行ったり。いつもは、おれと一緒にしていることを、おれ抜きでしていたのだろうか。
あるいは、おれ以外の誰かがトレーナーさんの隣にいたのだろうか。
トレーナーさんの友人として思い浮かぶのは、ルビーのトレーナーさんだ。
努力家で無理をよくするのが、ミラクルに似ている。って、トレーナーさんは言ってたっけ。
でも、おれが考えるのは彼じゃない。おれと再会するまでの5年間で、トレーナーさんにも色々なことがあったはずだ。
もしかしたら、恋人だっていたかもしれない。
あるいは、おれが知らないだけで、今も交際しているかもしれない。
考えていると、とても気になってくる。


29 : 相棒 2023/09/26 06:30:54 ID:uyyKn/IL8U
「ちょっと、聞いていいですか」
トレーナーさんが専門誌から目を離して、こちらに振り返る。
「どうした?何か分からないことでも――」
「恋人っていますか?」
「……?乞い?来い?なんて言ったんだ?」
「今、付き合ってる人はいますか?」
トレーナーさんは深いため息をついた。
「俺の空いた時間は、全部ミラクルに取られてる。恋人を作って維持する時間があると思うか?」
「……たしかにそうですね。それじゃ、今まではいたんですか?」
「いや……そういえば、考えもしなかったな。恋人なんて」
「なぜですか?トレーナーさんみたいに優しい人なら、いくらでも相手はいたはずです」
すると、トレーナーさんは悲しそうに言った。
「ミラクル、俺は君が思うほど優しくないし、優しいだけじゃ男はモテないんだ」
「……おれなら、トレーナーさんをほっとかないのに」
おれがそう言った時、トレーナーさんの目に、好奇心の光が差したように見えた。


30 : キミ 2023/09/26 06:31:10 ID:uyyKn/IL8U
「ミラクルはどうなんだ?」
「どうって?」
「恋人だよ。専門学校時代に、誰かと付き合ったことぐらいはあるんじゃないか?」
「うーん……」
正直、勉強に必死で考えたこともなかった。
「いえ、特にそういうのは無かったです」
「誰か気になる人は?」
「そういうのも、いなかったです」
「そうか。ミラクルは綺麗だから、ひょっとしたらと思ったんだが」
綺麗、と褒められて、思わず嬉しくなる。もっと言ってくれないかな。
「お互い、ずっと独り身ってわけか」
「あはは……だから恋バナにも付いていけなくて」
実は、職場の同僚から、気になる人はいないの?と聞かれたことがあります。そういう時に思い浮かぶのは、いつもあなたの顔でした。
そこまでは、恥ずかしくて言えなかった。


31 : 使い魔 2023/09/26 06:31:28 ID:uyyKn/IL8U
「ふぁあああ……」
そろそろ昼になるころ、トレーナーさんが大きなあくびをした。
雨はまだ降り続いて、止む気配はまったくない。
眠そうに目をこすっているトレーナーさんを見ていると、まるで猫みたいだな。と思う。
雨の日に窓際のソファでずっと寝ている猫の絵本があって、今のトレーナーさんはまさにその絵本の猫にそっくりだった。
「コーヒー、入れましょうか?」
「いや、自分で入れるよ」
「遠慮しないでください。おれの方がキッチンに近いですから」
「そうか、ありがとう」
お湯が沸くまでの間、トレーナーさんを見ていると、船を漕いでいるのか、規則正しい動きで頭が揺れているのが見えた。
「はい、コーヒーです」
ソファの前のテーブルにコーヒーを置くと、ソファに寝転がったトレーナーさんが、すうすうと寝息を立てて眠っているのが見えた。


32 : トレピッピ 2023/09/26 06:31:46 ID:uyyKn/IL8U
その様子があまりに隙だらけで、耳元で呼びかけてみる。
「あなたがそんなことをしたら、誰かに食べられちゃいますよ」
返事はない。寝息も変わらない。
ただ、彼の閉じた口元に目を奪われてしまう。
あまりに無防備で、トレーナーさんはわざとこういうことをしているのではないかと考えてしまう。
あるいは、おれがトレーナーさんと一緒にいると安心できるのと同じように、トレーナーさんもおれと一緒にいると安心できるのかもしれない。
そうだったらいいな、と思う。あなたが気を抜いて休める場所になれるのは、とても魅力的なことだ。
そっと、トレーナーさんの顔に、自分の顔を近づけていく。
覆い被さるような体勢で、なぜだかドキドキしてしまうのを抑えながら。


33 : マスター 2023/09/26 06:32:10 ID:uyyKn/IL8U
唇が、トレーナーさんの唇と重なった瞬間。
トレーナーさんの目が開いた。
次の瞬間の行動は予想できた。理学療法士は、人の反射的な行動には慣れっこだから。
おれを突き飛ばそうとする手をかわして、掴み、ソファに押し付ける。
腕と腰に力をこめて、トレーナーさんの身体をソファに縛り付ける。
怒られるだろうか、と考えて、それすら楽しみな自分がいる。トレーナーさんに怒られるなんて、本当に久しぶりだ。


34 : トレーナーさま 2023/09/26 06:32:59 ID:uyyKn/IL8U
「ミラクル」
「はい」
「どいてくれ」
「嫌です」
「なぜだ?」
「トレーナーさんに逃げられたくないです」
「俺は逃げたり……はぁ」
ため息をついて、目をそらす動作。
トレーナーさんがおれに嘘をつく時の、分かりやすい癖。
なんでこう、この人はおれを煽るようなことしかしないのか。
「俺は……」
ぽつりと、トレーナーさんが言う。


35 : アネゴ 2023/09/26 06:33:25 ID:uyyKn/IL8U
「君にはもっと、素晴らしい人と結ばれてほしいと思っている」
目線がぶれない。本心の言葉だ。
「どんな人ですか?」
「俺の50倍かっこよくて、50倍優しくて、50倍誠実で、50倍の稼ぎがある……」
「そんな人、どこにいるんですか?」
「5年もあれば、君が見つけ出すと思っていた」
「たった5年じゃ、あなたより優しくてかっこいい人は見つかりませんよ」
トレーナーさんは押し黙る。
おれも、トレーナーさんに言う。
「おれも、トレーナーさんにはもっと素晴らしい人と結ばれてほしいと思っていました」
「どんな人だ?」
「おれの50倍かっこよくて、50倍速くて、50倍綺麗で、50倍優しい……」
「そんな人、どこにいるんだ?」
「5年もあれば、あなたが見つけ出すと思ってました」
「たった5年じゃ、見つからなかったよ」


36 : トレーナー 2023/09/26 06:33:52 ID:uyyKn/IL8U
お互いに笑い合う、その瞬間。
トレーナーさんの身体が跳ねた。
おれは体勢を崩し、その隙にトレーナーさんがソファから這い出ようとする。
「トレーナーさん!」
トレーナーさんの身体にしがみついて、必死に食い止めようとする。
さすがにウマ娘の力には勝てないか、トレーナーさんは床に倒れこんで動けない状態になる。
「ミラクル、よせ。お前の両親に……」
「こうなることを考えずに、同居を許すはずが無いですよね」
身体をひねって、トレーナーさんの身体をあおむけにさせる。
「……クラシックのスプリンターズステークスの時、覚えてますか?」
「忘れるわけないだろ」
「おれが無理やり、レース登録の書類を持って行こうとしたら、トレーナーさんが力づくで止めようとして。ふふっ、今は逆ですね」
「ミラクル……」
トレーナーさんが動揺した隙を狙って、おれはトレーナーさんに覆い被さる。


37 : トレーナーちゃん 2023/09/26 06:34:30 ID:uyyKn/IL8U
「あの時。おれは本当にあそこで全部出し切る気だったんです。その先の人生なんて望めないくらい、なにもかも全部」
「させられるわけないだろ、そんなこと」
「今はどうですか?」
「今?」
「いつか言いましたよね、おれの先は短いって」
「……ああ」
「なのに、再会してから、おれにこんな優しくして、離れられなくして、それからあなたの50倍かっこよくて優しい人を探して来いって、ひどすぎますよ」
「……」
「だから、トレーナーさんがもらって下さい。あの時、燃やすつもりだった、全部。トレーナーさんが責任もって、あのレースの代わりに燃やしてください」
「……ああ」
耳をすまさないと、外の雨音にかき消えてしまいそうなくらい小さな声。
それでも、おれにとってはスターティングゲートが開くよりも、明確な合図だった。


38 : トレピッピ 2023/09/26 06:35:18 ID:uyyKn/IL8U
雨。
雨。
雨。


40 : 使い魔 2023/09/26 07:46:51 ID:rpgPA4JzVk
お耽美……


41 : 使い魔 2023/09/26 08:43:45 ID:Q.Gx3VBheY
素晴らしい…連休明けの憂鬱な気分をアゲてくれるな…


42 : トレーナー君 2023/09/26 09:38:31 ID:SSZ5.Er1Ds
これほどの重力使いは久しぶりに見たな……


43 : 使い魔 2023/09/26 10:24:36 ID:UYh7YDsYPc
いやぁ素晴らしかった…いつもは文章疲れして途中までしか読まない事が多かったけど綺麗に改行されてるおかげで一瞬で読み終わってた


45 : お兄ちゃん 2023/09/26 11:00:57 ID:kG9t38erb.
素晴らしい作品を見た
ありがとうございます

言い方はアレだけどこのBBSに上げるだけじゃ余りにももったいない作品



引用元:いつでも手を離せるようにしたいケイエスミラクル